04-01 鶉ダムの地質
鶉ダムは厚沢部川の支流、鶉川に建設されたダムである。鶉川の中流域では新第三紀鮮新世の館層に属する堆積岩、上流域では鮮新世の安野呂火山砕屑岩類が分布している。館層の堆積と安野呂火山砕屑岩をもたらした火山活動は同じ時期に行われており、両者の関係は入り組んでおり、複雑である。
館層および安野呂火山砕屑岩類の形成された時代は、かつて新第三紀中新世とされていたが、現在は新第三紀鮮新世と考えられている。このため本文では鮮新世として記述している。
鶉ダムの基礎岩盤は、鮮新世を通じて長期かつ断続的に行われた火山活動の産物である安野呂火山砕屑岩類であり、安山岩質の凝灰角礫岩、火山円礫岩を主とする火山砕屑岩に凝灰岩、凝灰質砂岩を伴っている。火山砕屑岩の一部は、同じ時代に堆積が行われていた館層の泥質の堆積物の中に流入し、両者が不規則に混合する異常堆積帯を形成している場所もある。
私にとって、鶉ダムの地質は思い出深いものである。厚沢部川の支流の一つに安野呂川がある。学生時代、安野呂川流域の地質調査を指示され、2か月間乙部町に滞在し地質調査を行った。調査地の地質は鶉ダムと同じ館層の堆積岩および安野呂火山砕屑岩類である。まだ地質を学び始めたばかりであり、ハイアロクラスタイト(当時は古~中生代の塩基性の海底火山活動の産物に適用されていた概念で、後に酸性の新第三紀の海底火山活動にも適用が拡大された。)や海底土石流堆積物、スランプ堆積物などの斜面移動型の堆積物が不規則に分布し、調査地全体の地質構造を全く把握できなかった。調査地内をくまなく歩いたので、どこにどのような岩石が分布しているかは分かったが、地質図として取りまとめることはできなかった。このため自分には地質の能力はないとあきらめ、地質学科から鉱物学科へと転身した。鶉ダムを始めて訪れたとき、「あの時の地質と同じだ。」と感慨深かった。
新第三紀鮮新世に発生した「館堆積盆地」呼ばれる堆積盆地の東から西への移動および安野呂火山砕屑物による堆積盆地の急速な埋没をもたらした火成活動の理解なしに、鶉地域の複雑な地質構造は把握できない。私が当時この地域の地質図を作成できなかったのは、この地域における新第三紀後期の地質構造発達史を理解していなかったためである。
鶉ダムの基礎岩盤は火山砕屑岩が不規則に分布し、岩相の変化が著しく、全体像がつかみにくいことが特徴である。自らの過去の反省を込めて地質調査について考えてみれば、鶉ダムの地質調査にあたっては、ダムサイトに出現する地質が分布する地域の大まかな地質構造を把握することが大切である。そのためにはダムサイトのみならず、同じ地質構造発達史を有する隣接地域についても、できる限り多くの露頭を調査し、それぞれの岩相がどのように分布しているか確認する必要がある。
鶉ダムでは複雑な地質を反映し、地下水の構造もまた複雑である。水理地質調査について考えてみれば、調査ボーリングにおいて、削孔中や削孔後の地下水位の変化、さらに地下水位の変化と岩相の関係に留意することが重要であった。さらに、火山岩地帯の地下水の挙動は複雑であることから周囲の地下水分布調査を行い、地域の地下水挙動の全体像を把握することが求められていた。
鶉ダム基礎岩盤における地下水の流れには、火山砕屑岩中の亀裂に沿った流れと、砂岩中の間隙内を浸透する流れがある。貯水池からの大量の漏水や地山の浸透破壊は地山内の大きな流速により生じる。その原因は連続する浸透経路の存在である。それを明らかにするためには、地質調査によって確認される連続した浸透経路が記載されたダム軸上下にわたる水理地質構造図が必要である。鶉ダムにおいて精度の高い水理地質構造図が止水計画を立てる設計者にきちんと伝えられていなかったことは残念である。
国道227号沿いにダム展望駐車場がある。ダム展望とはいえ、ダム湖しか見えないが。ダム湖の下には、1686年(明治元年)館城攻略を目指す旧幕府軍と、城を防衛する松前藩の間で戦闘が行われた稲倉石古戦場がある。旧幕府軍の急襲により、松前藩士は城に火を放ち退却した。この駐車場にある碧血碑は松前藩士を慰霊するために、北海道庁の農業技師蠣崎知次郎により、大正8年に古戦場跡に建立された。しかし、ダム建設に伴い水没するため、この地に移転された。また、ダム工事中の昭和52年に発見された、縄文時代の稲倉石岩陰遺跡もダム湖に下にある。発掘調査により発見された土器や石器は研究資料として残されている。